تسجيل الدخول「実花、ごめん……」
真理の声に、実花は首を横に振った。
違う。
真理が悪いわけではない。
そう伝えたいのに、涙が邪魔をして言葉にならない。
何度も首を振ることしかできなかった。
けれど、それを見た真理の顔はますます曇っていく。
「実花……」
真理は困ったように唇を噛んだ。
「僕が男だってことが、嫌だった?」
実花は目を見開く。
違うと言おうとした。
しかし、息を吸うと喉の奥からしゃくり上げる音しか出てこない。
「女の格好をしていたことも……気持ち悪いって思った?」
実花は強く首を横に振った。
それでも真理は、自分を責めるように視線を落とす。
「実花と話すときは、気をつけていたつもりだったんだ」
恋愛のこと。
女性の身体に関わること。
真理なりに、踏み込みすぎないよう注意していた。
「でも、あくまで気をつ
「状況を整理したい」実篤のその言葉に、部屋の空気が引き締まった。光也が注文したルームサービスは、まだ届いていない。京と真理はソファに座り、実花は父の隣へ腰を下ろした。光也だけが少し離れた椅子へ座り、相変わらず落ち着いた様子で足を組んでいる。実篤はまず真理を見た。「女性と偽っていたところを見ると、真理君は東国の当主になる気はない。間違いはないか?」「はい」真理は迷わず頷いた。「僕は東国の当主にはなりたくありません」実篤は続いて光也へ視線を移す。「東国君は?」「俺は藤宮に婿入りするので」「それについては別途話し合いだな」光也がわずかに眉を寄せる。「まだ話し合う必要がありますか?」「……その話はあとだ」光也は渋々口を閉じた。実篤は真理へ向き直る。「では、君は今後どうしたい?」真理は膝の上で拳を握った。「僕は篠原家を継ぎたいです」その声には迷いがなかった。「ただし、それは男として。本来の自分に戻って、もう隠れるような生き方はしたくありません」名前を偽り、女生徒のふりをして。本来の自分を隠して生きることに疲れていた。しかし、自分の存在を明かせば、東国家だけでなく、関係する家々まで混乱させることは分かっている。だから、まだ名乗れない。実篤は静かに頷いた。「それなら、東国君がさっさと当主になれば問題は解決だな」光也は表情を変えずに答える。「その場合は、実花を嫁として東国家へ連れていきますよ?」「何だって?」実篤の眉間に皺が寄った。「当然でしょう。実花は俺の婚約者です」光也は淡々と返す。「俺が東国の当主になれば、実花は東国の当主夫人になる。藤宮家には渡しません」「実花を東国へやるつもりはない」「では、俺と実花の結婚はどうするのです?」「……知らん」「知らんではないでしょう」「……この話も後で、だ」実篤は咳払いをした。京が呆れたように息を吐く。「光也の話は置いておきましょう」「俺の将来の話ですが?」「ややこしくなるから黙ってなさい」実篤は京に感謝するような目を向けたあと、再び話を戻す。「東国君。君から見て、これという人物はいないのか?」「これの基準が難しいのですよ」「……そもそも、だ。君は親戚をきちんと覚えているのか?」光也は少し考えた。「そういえば、ろくに知りませんね」「なぜ
「東国光也! 貴様っ――何だ?」勢いよく部屋へ踏み込もうとした実篤の前で、光也は人差し指を唇の前に立てた。静かに。その仕草に、実篤は眉を寄せる。何だ、と不思議そうな顔をしながらも、ひとまず声を落とした。「誰かにつけてこられませんでしたか?」光也が周囲を確認しながら尋ねる。「……警察の世話になるようなことをやらかしたのか?」「心当たりはありませんね」「君が気づいていないだけかもしれないぞ」実篤は深いため息をついた。「それより、実花はどこだ?」「ここにいますっ」実花は光也の背後から声を上げた。実篤からは、光也の身体に隠れて実花の姿がほとんど見えない。光也が背に庇うようにして、実花を前へ出さないようにしていた。「……何をしている?」「実花を叩かせるわけにはいかないので」「なぜ私が実花を叩かねばならん」「昔のドラマにあるでしょう。無断外泊した娘に『この不良娘が!』と平手打ちするような場面が」「実花は外泊をしたわけではない」「まあ、そうですね」「万が一そうだとしても、俺ならお前を殴る」「確かに」光也はあっさり納得し、実花を前へ出した。実篤は娘の姿を頭の天辺から足先まで確認する。一度では足りなかったのか、視線が再び足元から頭まで戻り、もう一度下へ降りた。「見て分かるものですか?」茶々を入れるような光也の言葉を、実篤はひと睨みで黙らせる。髪も服も乱れていない。ただ、泣いた痕がある。「貴様、実花に何をした」「泣かせたのは、あいつです」光也は部屋の奥を示す。そこでようやく、実篤は部屋の奥にあと二人いることに気づいた。光也と実花が二人きりではなかったと分かり、実篤の表情からわ
光也にも、真理にも、東国の後継者になる気はない。けれど、東国の後継者が決まらなければ、真理は男として生きることができない。事情を聞き終えた実花は、改めてその難しさを感じていた。「光也から見て、これって人はいないの?」京が尋ねる。「“これ”の基準が分からない」光也は迷うことなく答えた。「ああ、そうかもね」京は呆れたように頷いた。「プロジェクトを任せられるか、部門のトップに相応しいかは分かる。だが、東国家となると分からない」光也は肩を竦める。「俺に求められたのは性別と顔だ。俺じゃないとなれば、それなりに条件があるだろうな」「なんか、すごい台詞ね。ホストの条件みたい」そのやり取りを聞いていた真理が、実花を見た。「実花なら分かるんじゃない?」突然話を振られた実花は驚く。「私?」「十八年間、藤宮の一人娘をやってきたんでしょう?」実花自身はずっと、自分が婿に迎えた人が後継者になると思っていた。しかし、父は実花を後継者に、婿となる者はあくまでも補佐だと言った。当然だというような口ぶりだった。「家の歴史とか、いろいろ言っていたでしょ?」「そうだけど……」幼い頃から受けてきた教育も、実は後継者に必要なものだった。そう考えれば、実花はこの中で最も後継者という立場に近い。けれど。「言われたままにやってきた感じだから、後継者の基準なんて分からないわ」実花は正直に答えた。父から学べと言われたことを学び、覚えろと言われたことを覚えた。自分が後継者に向いているから選ばれたのか。一人娘だから選ばれたのか。それすら、きちんと考えたことはなかった。「それならば、お義父上に聞くか」光也が当然のように言う。「あんたね」京がすぐに口を挟んだ。
【真理視点】「光也さんに近づくために、実花と仲良くなろうと思った」真理は認めた。実花の目が揺れる。その表情を見ていると胸が痛んだが、ここで誤魔化すわけにはいかなかった。「でも、それは最初だけだよ」光也に対して、初めに抱いていたのは興味だった。同情もあったかもしれない。申し訳なさも、少しは感じていた。光也は、親たちが選んだ道の結果を押しつけられた人間だ。父親が真理の母親へ向け続けた執着。自分の過ちを正すことなく、東国家から逃げることを選んだ母親。行き場を失った怒りを、夫の愛人とその子どもへぶつけた東国夫人。そのすべての後始末をするように、光也は東国の後継者へ指名された。東国の次期当主。聞こえだけは立派だ。しかし実際は、親たちが犯した過ちの尻拭いをさせられるような立場だった。「不思議だったんだ」「何が?」実花が涙を拭いながら尋ねる。「光也さんの……態度?」東国の次期当主という肩書きを積極的に使わない。かといって、激しく拒絶するわけでもない。恨んでいる様子もなければ、それを誇りに思っている様子もない。「光也さんにとって、東国の後継者っていう立場は、道端に落ちている石ころみたいに見えた」「石ころ?」実花が目を瞬かせる。「興味があるうちは、蹴るにしろ投げるにしろ、使い道があるなら持っていようって感じ」真理がそう言うと、実花は少しだけ笑った。涙で濡れた目元が柔らかく緩む。「分かるかも」興味がなくなれば、それまで。わざわざ捨てることさえもしない。その場に置きっぱなしにして、やがて存在そのものを忘れそうなもの。光也にとって東国の後継者とは、その程度のものに見えた。「でも、光也さんは東国の次期当主として淡々と実績を上げていた」
「実花、ごめん……」真理の声に、実花は首を横に振った。違う。真理が悪いわけではない。そう伝えたいのに、涙が邪魔をして言葉にならない。何度も首を振ることしかできなかった。けれど、それを見た真理の顔はますます曇っていく。「実花……」真理は困ったように唇を噛んだ。「僕が男だってことが、嫌だった?」実花は目を見開く。違うと言おうとした。しかし、息を吸うと喉の奥からしゃくり上げる音しか出てこない。「女の格好をしていたことも……気持ち悪いって思った?」実花は強く首を横に振った。それでも真理は、自分を責めるように視線を落とす。「実花と話すときは、気をつけていたつもりだったんだ」恋愛のこと。女性の身体に関わること。真理なりに、踏み込みすぎないよう注意していた。「でも、あくまで気をつけていたつもりでしかない」真理は俯く。「実花が僕を女だと思っていたからこそ、話してくれたこともあったかもしれない」実花はまた首を振る。真理と交わした会話で、嫌だったものなど、一つもない。男と分かった今でさえ。どれも大切だった。初めて友人と交わした、何気ない言葉。一緒に笑った時間。全部、実花にとっては宝物だった。「実花、僕が何か変なことをしたのなら――」「変なこと?」光也の低い声が割って入った。真理の肩がぴくりと揺れる。光也は先ほどまでよりも険しい表情で、真理を見ていた。「お前、学校で実花に何をした?」「何もしてないよ」「今、自分で変なことをしたかもしれないと言っただろう」「そういう意味じゃない」「では、どういう意味だ」光也が一歩、真理へ近づく。「お前が実花
「でも、ご当主の言うまま僕を産んで、跡取りに差し出す気はなかった」目が覚めた篠原真琴にとって、東国の当主との関係は清算すべきものだった。だが、子どもはいる。「だから、篠原真琴は事故を利用して、流産したと東国の当主に伝え、日本を離れた」そして篠原真琴が頼ったのが、京たち姉妹だった。「よく光也さんのお母さんが母を受け入れたと思うよ」東国の当主が光也の母親である玲を見初めたのは、真琴に似ているからだった。「母さんはそういうことを気にするタイプではないからな」「東国のご当主はろくな男ではないけれど金払いは良かったから、姉さんは手切れ金でアメリカに行って、ずっと夢だったデザイナーの勉強もできたしね」私も巻き込まれたけれど、と京がため息を吐く。その姿は、光也に困らされる航に似ていた。「東国さんは、お母さんに似ているのですね」思わず実花の口から感想が漏れた。それを聞いた光也が軽く目を瞠り、楽しそうに口角を上げる。「そうかもな」「子どもを女の子として育てることを提案したのは姉さんだしね」「それでも、決めたのは母です」東国家に関わらせない。篠原真琴はそう決めて、真理は女の子として育てられた。「女の子ならって……」「東国の当主は藤宮のお義父上とは違って、後継ぎは男って考えに固執しているんだ」光也の顔が冷たくなる。「藤宮を見習ってほしいものだ」「本当だよ」光也と真理は難しい顔で頷く。「おかげで二十年以上、女として生きる羽目になった」「……二十年?」実花が真理を見た。「僕、本当は二十一歳なんだ」「え?」実花は驚いて目を丸くした。「大学もアメリカで飛び級して卒業している」「ええ!?」それなら、なぜ日本の女子高に通
使用人が用意したドレスを、実花は静かに見下ろしていた。白に近い淡紫色。光の当たり方によってはほとんど白にも見えるその色は、藤宮家の「清楚な娘」であることを象徴するために選ばれたものだった。上品で、柔らかく、誰から見ても好印象を与える色。前世の実花はこの色を疑うこともなく、むしろ一ノ瀬恒一の好みに合うだろうと信じて、少し誇らしげに選んでいた記憶すらある。彼に選ばれるための自分を作ることに、何の疑問も抱いていなかった。だが今、その淡い紫はまったく違う意味を持って見えていた。それは「清楚」の象徴ではなく、「従順」の象徴だった。良い娘であること、良い妻になること、それらの言葉に守られているよう
まぶしさで目が覚めた。実花は一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。瞼の裏に残る白い光の余韻がゆっくりと引いていき、代わりに柔らかい感触と静かな空気が意識へと染み込んでくる。身体を包んでいるのは上質なシーツで、布地は肌に吸い付くように滑らかだった。鼻腔を満たすのは、微かに甘く落ち着いた香り。高価な調度品に染みついたような、整えられた空間特有の匂いだ。ゆっくりと視線を巡らせると、そこは見慣れた―――けれど今の自分からは遠く感じる藤宮邸の一室だった。咄嗟に窓の外を見る。そこには、過剰なまでに手入れされた庭園が広がり、剪定された樹木と計算された配置の花々が、まるで絵画のような均整を保ってい
「全く……美鈴、疲れているだろう。今日はうちに泊まっていくといい」その言葉は、まるで最初から用意されていた結論を読み上げるかのように自然だった。迷いも逡巡もなく、恒一の口から滑り落ちる中に実花の反応を気にかける様子はない。「でも、服が……」美鈴は困ったようにわずかに眉を寄せる―――困り方すら整えられていた。自分がどう振る舞えば最も『恒一に大事にされる存在』として成立するか、それを計算した振る舞いだった。「今夜はこの前置いていった服をとりあえず着ればいい。明日になったら一緒に買い物に行こう」恒一は即座にそう言い切った。その声音には、『こうするのが当然』というような親密さが滲んでい
あの夜は、ただ変な声がして目が覚めただけだった。夢と現実の境目がまだ曖昧なまま、痛みでふらつく頭を押さえながら実花は一人で寝ていた寝室からゆっくりと廊下へ出た。冷えた床の感触が足裏に伝わるたび、意識が少しずつ現実へ引き戻されていった。声のする方へ向かったのは、意志というより反射に近かった。何が起きているのかを考える前に身体が勝手に動いていた。そして、すぐに分かった。何の声か。何の音か。理解してしまった瞬間、胸の奥が冷たく沈んだ。美鈴の甲高い声は快感を訴え、「もっと」と甘えるように揺れていた。それに応える恒一の唸り声は理性を削ぎ落とされた獣のようで、実花の知る“夫”という存在







